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2006年6月ニューヨーク日記

ニューヨークへ行ったら、
何か変わるかもしれない・・・。

そう思い余って6月にニューヨークへ飛び出してしまいました。
その日記を公開したいと思います。

訳あって、持ち物ビジネスバック1つ(パスポート、チケット交換の紙、
本、現金、クレジットカード、デジカメ)しか持っていきませんでした。
必要なものは、向こうで買い揃えるという旅にしました。

+++++++++++++++「NY旅行記」+++++++++++++++++++++

平先生がNYに滞在できる場所を提供したことを知る。そして、NYで誓った事を知る。

自分もNYに行けば、何かが見えてくるかもしれない・・・。

そう考えると、自分が渡航するかもしれない時期に、サッカーW杯の日本戦があることなんて考えもせず、航空チケットの手配に動いてしまう。

五月末。6月中旬のチケットは品薄だったが、チケット代+空港使用料+保険代+(なんか)+(←良くわかんない)などで、行く3週間前で保険コミコミで10万ちょっとで行って帰れることが分かる。(HIS)

23日の帰りの便なんかは、「帰りの便は残り一席だったので、とりあえず抑えちゃいましたがいいですよね?」とHISの人に提案される。「はい。OKです。ありがとうございます。」と答えたが、チャンスを掴む時というのは、こんな感じなんだろうと考える。

アスカマンハッタンの予約が入ったあとで、見計らったように、Mr.Xの「旅」についての話を聞く。

必要なものは現地で買って、経験にしようとは考えてはいたものの、そういう旅をMr.Xが薦めていることを知る。

この話をきいたあと、旅支度なんて、何もないことがわかり、渡米前日まで、いっぱいいっぱい業務をこなす。その2週間は菓子製造で本当に良く働いたと思う。

持ち物は、パスポート、旅券引換券、海外保険書類、現金、クレジットカード、本、デジカメ、身だしなみのためのカミソリ・・・、ぐらい。服も下着もPCも、あえて持っていかなかった。

6/16(金)

自分は仏様は本当にいて、亡くなった父親は自分のことを守ってくれていると信じているため、9:30に母親と墓参りに行く。

「父ちゃん。行って来るよ。仏様には望んではいけないらしいけど、命だけはとられないように頼めないかな・・・?」と祈った。

新富士10:10の新幹線に乗る。この旅のために、ここ2週間ぐらいは激務だったので、寝てしまい、気付いたら東京駅。

成田第一ターミナルには離陸4時間前ぐらいに着いてしまう。

まずはHISのカウンターに行き、チケットを受け取る。

外に出られる所があり、そこでは飛行機の離陸・着陸を感じられる。

海外でも使える携帯を借りる。ドコモと提携しているみたいだったので、そこに決めたが、8000円ぐらいかかる。なんか高い。JALの一日250円のヤツの方が良かったと思う。

離陸3時間前ぐらいにアメリカン航空(AA)のカウンターに行く。この頃が一番込むらしい。チケット引き換え後、すぐ行けば良かったと思う。

チケットを受け取り、とりあえず、出国手続き。やはりビビる。

17:05から搭乗開始と書いてあったのに、17:25から。騙される。

搭乗して、17:55離陸。久しぶりのこの離陸の感覚。

離陸前はなぜか眠くなる。何か気圧と眠気との関連とかあるのかな?

乗って30分後、まずつまみとジュースが出る。

離陸2時間後、パン、カツ丼、寿司、モンブラン・・・、炭水化物だらけの食事が出る。

それを食べ終わった30分後、ドリンク注文。せっかくなので、ビールを頼む。

昔と違って、アルコールを頼むと$5掛かる。チップも必要か?と、$6払ったら、男の乗務員さんが、「ビールすき?」とかたことの日本語で言ってきたので「はい」と答えると、ビールをもう一本くれた。でもビール2本は多かった・・・。

離陸7時間後、パン(サンドウィッチ)と巨峰とジュースが出てくる。食べ物多い。

離陸10時間後、アップルパイとクロワッサンと、ミカンとパイナップルの甘くしたの(缶詰)が出てくる。これでもかと食事が出る。

17:30に予定通り空港に着くが、着陸態勢に入れず。結局17:50に着陸。

税関に時間が掛かりそうだと思ったので、荷物の少ない自分はシートベルトを外す合図とともにスタートダッシュして、機外に出ようとする。

でもビジネスクラスのサラリーマン風の外人にせき止められる。

結構早く機外へでる。

税関や入国審査に望む。

ストリート名が書いてなく、入国審査に止められる。

ホテルかハウスか聞かれたが、適当に「そこは会社で、そこに村越さんがいて、この番号に電話を掛けることになっている・・・」と言ったが、さらに怪しまれる。(冷汗)

「あそこのジャケットの男に聞け」と審査を中断される。

困った自分は、村越さんから送られた地図を見せ、「ここに行くんだけど・・・」と困った顔をしてみた。

その時、そのジャケットの男性がgoogle検索のキーワード「11 ~~ street 」の文字を発見し、それを書き込んでくれた。

再度アタック。

かなり怪しまれる。荷物も少なかったし・・・。

その審査官、かなりの回数首を横に振る。「やっかいなのがきた・・・」と雰囲気でわかる。

多分、テロ対策の審査にひっかかった。両手の指紋をとらされ、顔写真も取られた。

でもやっとそこを抜け、出口へ。

最後の税関。7日間滞在なのに、荷物なしなのを怪しまれ、

税関: 「荷物はないのか?」(←多分)
自分: 「はい。」
税関: 「観光じゃないのか?」(←多分)
自分: 「はい、観光です」
税関: 「着るものとかどうするんだ?」(←多分)
自分: 「buy.buy.」(←めちゃくちゃな英語)

と言ったら分かってくれたらしく、
税関: 「そうか、いい店がいっぱいあるから、いい物探せよ~」(←多分)
と送り出してくれた。

自分はあずけた荷物がなかったので、なんやかんやでその便で一番最初に空港出口を通ることになった。

出口では、スケッチブックに名前を書いて待ち合わせている人たちがたくさんいた。

で、自分の方は、タクシーのドライバーさんとは、出たところの両替所の前で待ち合わせとなっていたが・・・、探しても探しても、両替所がない!!

慌てて、使ったことがない海外用の携帯電話を説明書を読みながら使い、電話を掛ける。なんとかつながり、急遽、アシスタントの方が3分後にホットドック屋さんの前に来ることになった。

アシスタントの方はすぐ着いた。
普通は入国審査や荷物の受け取りで時間を取られるので余裕を見ていたらしい。
荷物が薄っぺらいビジネスバック1つだったことに、かなり驚いていた。

時間があるのでJFK空港を散歩することになった。

その方は、10年仕事をやったのち、今は学生をやっているとのこと。NYで人文学を専攻してるらしい。

その方いわく、NYは300の言語が入り乱れていて、65%がネイティブでないこと、1日外に出ればセキュリティのために20枚は写真を取られているなど、いろいろお話をきいた。

この方もNYに魅せられたらしい。世界の縮図・・・、まだ何も体験していないが、魅せられ気持ちがわかる気がした・・・・。

JFK空港で専用ドライバーさんに会う。これまた荷物がないことに驚かれた。この方にも車内でいろいろお話をきいた。

あえてマンハッタンブリッジ(近くにブルックリンブリッジもある)を渡ってマンハッタンへ。アスカマンハッタンに着く。村越さんが出迎えてくれた。

これから所用で出掛けなければならないらしかったので、どこか服を買う所がないか聞いてみた。

もう夜だったので、近くのスーパーマーケットに案内してくれ、途中まで送ってくれた。

しかし、ここには服はなかった・・・。(汗)

夕飯は買おうと思っていたので、いろいろ探すが、適当なものがないし、英語がわからない・・・。

いろいろなものがデカく、一人分という概念がほとんどないらしい。結局、サンドイッチ(らしきもの)とデカいサラダ、ジュースを買って帰る。

サラダがデカ過ぎで、満腹になってしまったので、サンドイッチは朝食にしよう・・・、と思っている矢先に、玄関からピンポーンと呼び鈴が鳴る。

小さい穴を覗くと、ブログで見覚えのある、林さんだということがわかる。あけて初あいさつ。スペインから帰ってきたとのこと。

シャワーを浴びる。その後、きれいな服がないため、素っ裸に、ここで借りることができたタオルにくるまって横になる。

そのまま眠くなってしまい、21:30ぐらいに寝てしまう。

6/17(土)

6:00に目が覚め、昨日のサンドイッチをほうばる。

部屋に置いてあったガイドブックを読み、はじめてNYの見所についていろいろわかる。

7:00に散歩にでかけ、イーストリバーのほとりを歩く。川の近くや、公園で太極拳みたいなのをやっている人がたくさんみかける。

朝のチャイナタウンは活気がある。

7:50に戻り、8:00に再出発。

キャナルstreetを進み、ブロードウェイstreetを北へ向かう。この辺りは何もないのかな・・・、と思ったら、気付いたらSOHOにいた。

なぜにわかったかというと、adidasのショップのデカい看板にサッカーの中村の顔が見えたからだった。

そこではあまり時間をかけず、北へ、北へ。

ユニオンスクエアに着く。フリーマーケットみたいなのをやっていた。デカいキャンピングカーが横付けされて、魚や肉、野菜、ジャム、花・・・、なんでも売っていた。

さらに北へ。途中「SUSHI」の文字を発見。この時は珍しいと思っていたが、この先7日間で「SUSHI」の文字は結構見ることになる。NYでは認められた文化になっている模様。

また、セブンイレブンも見つける。中は・・・、普通のスーパー。日本のコンビニのようなイメージはない。

マジソンガーデンを通り、マジソンスクエアガーデンへ向かう。この辺りは通りに急に黒人が多くなってきて、少々ビビる。

このあたりのショップで、Tシャツ、ソックス、トランクス、Gパンを買う。かなり安く、40ドルぐらいで一週間分の着るものがそろう。

マジソンスクエアガーデンの中に入り、ここでNBAが・・・、と思いをはせる。

さらに北へ。途中、昼食のためにマックへ入る。

マックへ入ると、ホームレスらしき人がいて、お金を乞われた。

「もうちょっとお金があったら、ハンバーガーが食べられるから、お金をくれないか」(←多分)と言われる。

怖かったので、無視した。そしたら「ひどい人だ・・・」(←多分)と言われた。

マックでドリンクを頼むとき、「コーク?コーク?」とシステム的に聞かれる。自分が「Something else?」(こんな質問の仕方はないのかな??)と聞いても通じてない。

「言っていることわかんないよ、ワハハハ。」(←多分)とバカにされたような対応を取られた。

「cold tea.」と言っても通じない。「Ice coffee」と言ったら、やっと通じた。

Mr.Xが言っていた、システムビジネスとマックの店員の知能指数の話を思い出し、その通りだと思った。

そして同時に、自分の英語の知能指数も低すぎることも身にしみた。

その後、ブロードウェイと聞くと想像される、景色が現れる。いろんな看板が動いている。写真では表現できない。「動き」の重要さに気が付く。

その後、五番街49stへ向かう。

和菓子のお店、源吉兆庵を見学。人はあまりはいっていない。日本にある店舗をそのままNYへ持ってきた感じ。店頭で日本の文化を紹介しているのはいいと思った。でも、アメリカやその他の地域の人たちに注目されるには、日本にある状態の店舗ではまずいんだな、と感じた。

あとでもう一度寄る予定なので、写真だけ撮って、北へ。

ブランド街みたいなものが広がる。見たことがあるブランドのお店がいっぱい。

セントラルパークに出る。歩いて制覇してやろうと思っていたが、へばりだした。

結構歩いただろうと思っても、1/3程度しか歩いていないことに気付くと、後を考えて戻ることにした。

途中、いろいろな催し物が開かれていて、家族サービスやデートにはもってこいの場所なんだと思った。芝生の広がる広場では、水着の女性が肌を焼いている。その背景にはビル街が広がっている。一瞬異様な光景だと感じた。

芝生に寝っころがる。空が広がる。

自分はいつも小さいことで悩んでいるんだな~と感じる。和菓子屋に戻り、栗饅頭とどら焼きを3個ずつ買う。値段は日本の2倍ぐらい。

地下鉄に乗り、南へ戻ろうと考える。目的の入り口がしまっていて、「この路線は廃線か?また歩かなければ?」などと焦るが、通りを挟んだところに入り口はあって、ほっとした。

地下鉄は怖いと聞いていたので、かなりビビりながら地下へ降りる。どこまで乗っても2ドル。券売機も恐る恐る操作する。

目的の電車が着たが、本当にこの方面行きの電車でいいのかが気になり、ガイドを見直していたら、乗りすごしてしまう。
続いて同じ方面行きの電車が着たので、のりこむ。

一人ドキドキしながら、次はこの駅に・・・、よし、あってる。次はこの駅・・・。と確認しながらキャナルstの駅まで乗る。

地上に出たら、人がいっぱい。屋台もたくさん。祭りみたい。この辺りがこのような場所であることを知っていたら、重たい思いをしてシャツやGパンを持ち運ぶ必要なんてなかったのに・・・、なんて考える。

その時はバックがいっぱいだったので、ガイドを出す気にもなれず、朝の散歩から方向を想像して、アスカマンハッタンに帰ろうとしたら、かなり遠回り。アホだ。最後にとても疲れた。

スーパーで水も買ってきて部屋に戻る。シャワーをあびて、新しい服やGパンをはいて、ご満悦。でも、トランクスがちょっと小さい。

で、ちょっと横になったら寝てしまう。

買ってきたお菓子を村越さんと林さんにプレゼントし、このあたりの食事事情をきく。ちょうど夕飯だったので、ご一緒させて頂く。

チャイナタウンで村越さんお勧めの店で中華を食べる。ショーロンポーが本当にうまい。村越さん自身のことを聞いたり、また林さんからとてもありがたい話を聞いたり、アドバイスを頂く。

もどり、買ったトランクスが小さいことがとても気になる。モノが寄る。これほど気分の悪いことはないと気付く。

結局、日本からはいてきたトランクスを洗面所で洗って、干して、明日はく事にした。

トランクス一枚ごときでランドリーを借りるなんて、恥かしくて言えなかった・・・。

弱い自分も認識。でもこの経験はビジネスにいきるはず、と勝手に思い込みながら、そのまま眠りにつく・・・。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++
6/18(日)

朝に昨日買った和菓子を食べる。正直、あんまり美味しくない。これだったらウチのものの方が美味しい。

でも、NYで売るためには、とても努力をして、やっとこの味までたどりついたに違いないと思った。小豆もいいものが手に入らないし、製菓器具だって調達しないとならない。冷凍して持ってくるならば、それようの開発をしなければならないし・・・。

7:30に朝食を食べるところを見つけに出歩く。村越さんお勧めのところは、すべて朝やってなかったので、迷う。

はやっている所なら、何かあるだろうと考え、結構人が入っていき、中国人風でない人も入っていくお店があったので、はいってみた。テイクアウトできそうな店だった。

レジに並んだが、どう頼んで良いかわからないので、かなりビビる。

自分の番。

おいしそうなものを頼んで、「That one.」と指差したら、わかってくれる。

えび入り揚げ団子、えびしゅうまい、肉まんらしきもの、3種類ぐらい選ぶ。なんとかなるものだと思った。4.5ドルぐらいだった。

部屋に戻って食べると、結構量が多い。食べたら超腹いっぱいになった。

グラウンドゼロだけは見ようと思い、今日はゆっくりぶらつこうと考えていた。

9:00に出る。NY市警察の方へ歩く。

途中、トンネルの方を見つめていたら、ポリスが、「そっちにはすすめないぞ。」(←多分)と声を掛けられたので、なぜか、「うん」とうなずく。

うなずいたあとで、なんで「了解。」とか気のきいた受け答えとかができればかっこいいのに・・・、とイマイチな自分を感じる。

裁判所らしき建物が現れる。立派。どこから金をもってきているんだろう?といわんばかりの建物が多い。遠くに見える市庁舎もすごい。

てくてく歩いてグラウンドゼロへ。

テロの状況を説明する看板みたいなのがたくさんある。

説明書きを読んで、涙がポロポロ。

以前、衝突後、崩れる前の1Fからの内部の映像を公開されたのをみたことがあり、その時の人の命がはじける音を思いだす。説明を読んで、身がひきしまる。

地下に子供が書いた絵が飾ってあった。

「I love Dad.」と書いてある絵をたくさんみて、また涙。

いたたまれなくなったので、祈ってから南へ向かう。

バッテリーパーク。自由の女神行きの船に乗る。日本語の説明込みで17.5ドルと書いてあったので、それにしてみる。ここから見る女神はまだ小さい。

乗る前に、テロ対策であろう、荷物チェック・金属探知があった。船には中国人の高校生らしき人が多く乗っている。なぜだ?

島に着く。自由の女神、近くで見るとデカい。

まずは休憩&昼食。メニューを指して、「This one, please.」と言ったら通じた。
でもポテト多すぎ・・・。

食べた後、女神の正面へ。

一人で、女神がはいるように自分に向かって、デジカメを構えると、「そんなことしなくても、撮ってあげるよ」(←多分)と男の人が言ってくれる。「段にあがりなよ」(←多分)、「撮れたか、確認してみてよ」(←多分)と親切にしてくれる。「Thank you,Thank you.」と伝えた。本当に優しい人だった。自分も日本で外国人と出会ったら、そうしてあげたいと思った。

自由の女神の中にも入る入り口がある。

でも、それは48時間以内に、Webで予約する必要があるみたいだった。自分、英語はしゃべれないけど、多少は読む力はあるんだなと思った。

日本語の説明はなんだったんだろうと思いながら、帰りの船に乗る。

船内で、途中、エリス島という所に寄るとのこと。

せっかくなので、エリス島に降り立つ。ここがどういう場所なのかは全く知らなかった。ここで初めて日本語の説明の意味がわかる。ここの博物館の説明をしてくれる日本語の再生機械を貸してくれた。

その再生機に従って動き、展示を見る。ここは移民の受け入れ業務をしていた島だった。途中、再生機はどこに連れて行きたいのかわからなくなることもあったが、最後まで聞く。結構時間が掛かった。世界史を専攻しておけば、もっと分かりが良かったかもしれない。

終えるとちょうど良く帰りの船がきた。飛び乗って、元のバッテリーパークへ。どこへ行こうか考えたが、とりあえずウォールストリートへ向かう。weekdayの時に見ようかと思っていたが、まあいっかと考える。

NY、基本的には建物に魅了されながら歩いていたが、この地区はこれでもか、これでもかと激しい建物が立っている。どこからそんな利益が上がってくるんだ?という感じ。ニューヨーク証券取引所を見て、感動。ここで毎日やり取りのドラマがうまれているんだ・・・。

その近くで、映画の撮影らしきものをやっていた。男優さんらしき人がいたが、誰かわからなかった。

ブロードウェイ通りを北へ戻る。

途中、ふらりと入ったアウトレットらしき店で、カルバンクラインのトランクスが6ドル。安い。日本の正規版だと3200円ぐらい、安くなっていても2000円ぐらい。

昨日買ったトランクスが小さかった自分にとっては、かなりな幸運。日本に持って帰るものも含めて、10枚をまとめ買いした。これで、今回の旅における下着に関する不安はなくなった。

キャナルstreetへでる。

途中、6枚10ドルのTシャツを見つける。みやげにいいと思い、あさっていたら、中国人店員が「さっさと選べ」(←多分。中国語で。)と言って、Tシャツを袋に入れようとしたので、「No」と言って、にらみ返す。

なんとか納得がいくものを買ったから良かったが、中国人のことが少々きらいになる。でも、自分も外国人に変なことをして、日本のイメージを崩しているかも・・・、とちょっと反省する。

汗だくで部屋へ戻る。シャワーを浴びて、おニューのカルバンクラインのトランクスをはき、ぴったりなのを確認し、一人ニヤける。(←バカ)

疲れて寝てしまう。

気付いたら21:00。

遅い時間は、あまり外に出ない方がいいときかされていたので迷ったが、晩飯のために近くのスーパーへ行こうと決意。

最低限の現金とだけを持って、でかける。最悪の場合は所持品おいて、ダッシュで逃げようと心に思いながら、足早にスーパーへ向かう。

晩飯一人分に適当なものがないため、デカいサラダ、生ハム、ビーフジャーキー、スナック菓子をもち、レジに並ぶ。

ほとんどの人が車輪のついたデカい買い物かごに、いっぱいの商品をつんで、レジで待っているので、かなり時間がかかる。

さらに加えて、前のおばちゃんが、メンバーズカードを持っていなかったらしく、「なんとかして」とねばっていたので、さらに時間が掛かる。その頃には10:00ぐらいになってしまう。

帰りもビビりながら帰る。最悪は買った商品を置いて、ダッシュだ、と思いながら・・・。

戻ると村越さんが声を掛けてくれたので、「一緒に飲みませんか?」と誘い、ビールを飲む。今思うと、声を掛けてくれなかったら、一緒に飲まなくって、いろんな話ができなかったかもしれないと思う。

服の話、九州の話、浜松の話、片道さんが清水という話、静岡の人は危機感で飛び込んでくるのか?という話、W杯クロアチア、ブラジル戦の話、自由の女神の無料船(近くまでいくやつ)の話・SOHOに優良スーパーがあるという話。

自分も菓子や生い立ち、健康、パウダーなど、いろいろ話をした。

パウダーをプレゼントして、12:30ぐらいになったので、悪いなと思い、終了。

家に電話をかけたらお婆ちゃんがでた。異常なし。

6/19(月)

毎日5~6時ぐらいに目が覚める。だいたいこの時間に今日はどこへ行こうか考えることが多い。

あれだけ歩いているのに、いつもより疲れがない。健康的だからかな?ビールをあんまり飲んでないからかな?普段、ストレスがかかっていたのかな?などと考える。

目も覚めてしまったので、出歩こうかとすると、外からデカい音が・・・。ゴミ収集車だ。やることがデカかったので、写真を撮っておく。

7:00にでる。weekdayは朝、スクールバスが出ていることに気付く。

とりあえずブルックリンブリッジを歩いて渡ろうと、NY警察の方へ。ガイドではこのあたりになっていそうな雰囲気だったので、橋のたもとにあるという入り口を探す。でもない。

通りかかる人に聞こうとしても聞けない。ましてや警官につたない英語で話をしたら、あやしまれそうなので、聞けない。自分のことをちっちゃな男だと感じる・・・。(涙)

ガイドをもう一度読む。「シティーホールの東側」とだけ書いてある。

でもこの辺りが東側になっている。でもシティーホールに行けば、看板が出ているかもしれないと考え、シティーホールへ。

シティーホールはすごい建物だ・・・、と思っていると、人の流れを発見。たどっていくと橋のたもとを発見。思わず写真を撮り、歩きはじめる。

歩道は木でできている。途中まで気付かなかったが、隙間があることに気付く。覗いてみると、下は40メートルぐらいの川。歩道の木も確認してみると、5cm厚ぐらい。腐っていたら・・・、なんてことを考えると、ぞくっとしたが、考えないことにした。

でも、一度気になりはじめると、忘れるのは容易ではない。器が小さい・・・。(涙)

摩天楼がきれいに見える。こりゃすごい。自分の中では、人生3本の指に入る景色。プロポーズはここだな・・・、と存在すら確認できていないまだ見ぬ相手に誓う。(←バカ)

結構歩いている人が多い。夜を見てみたいと感じる。そのまま渡り終えて、今度はマンハッタンブリッジを地下鉄で渡ろうと考えていたが、マンハッタンブリッジのたもとに歩いて渡る人用の入り口を偶然見つける。

「これは渡るしかない」と勝手に決め付け、渡り始める。

こっちの橋は、金網ごしの景色なので、情緒がない。人もあんまり渡っていない。地下鉄も大きな音を立てて横を通る。

あまり感動なくわたりおえようとすると、アスカマンハッタンがある通りを見渡せる所に出る。部屋もあのへんだ、と分かる。

その他、写真を撮る場所としてはいい感じだった。

渡り終わって、一休み。5分ぐらいポールに腰を掛けていると、中国人に中国人と間違われる。写真を撮ってほしいらしい。1枚とってあげると、次はここをバックに、次はここを・・・、と調子にのっていく。つくり笑顔をしながら撮り終える。

キャナルstreetを歩きながら、リトルイタリーに向かう。急にイタリアっぽくなる。

SOHOに出る。急に道行く人たちの層がかわる。セレブっぽい女性が多い。フチにブランドマークの入ったサングラスをするのが、今の流行らしい。

地下鉄で42streetへ。もう、地下鉄も怖くない。

つくと、新商品の販売キャンペーンで、大量のクッキーを配っていた。100人ぐらいバイトを使って、やっている。もらってももらっても、クッキーを渡される。

ミュージカル事情は・・・?と思っていたので、当日券が半額ぐらいで売り出されるというTKTSへ向かう。月3:00~8:00、火2:00~8:00、水10:00~12:00,2:00~8:00と表示板に書かれていたので、3:00まで時間をつぶすことにした。

市内一周観光の赤い2階建てバスに乗ってみようと考える。1回乗ると40ドルだが、50ドル払えば、48時間以内であればダウンタウン、アップタウン、ブルックリンなど、他のバスに乗れ、乗り降りも自由ときかされ、アップタウンも見てみたかったので50ドル払う。

まずはダウンタウン一周行きに乗る。2階へ上がると、NYの街はまた見方や景色、雰囲気が変わるのに気付く。まるで2階の人への景色をとっておいたかのように・・・。

いろいろまわる。エンパイヤーステイトビル近くを通り、ユニクロの場所もわかり、グラウンドゼロの近くのたくさんの墓(合掌・・・)も確認できた。アスカマンハッタンの近くも通り、国連も見れた。

途中、いろんな所で人が乗り降り。帰り道はこれを使おうと思った。ちょうど3:00ぐらいに42streetにもどってきた。

TKTSに行くと、いろんなミュージカルの価格がが50%になっていた。とりあえず、明日もチェックしようと思った。

アップタウン周りのバスに乗ろうと考えた。

その前にトイレに行きたくなったので、ファーストフードを見つけようとする。SUBWAYとバーガーキングがあった。とりあえず近いバーガーキングへ。

HICピーチを頼み、トイレに行こうと向かうと、トイレの前で母娘と思われる2人が言い争いをしながら、トイレを待っている。3分ぐらい待ったが、先に入った(であろう)人が出てこないのと、その場に居づらくなったので、出てしまう。

HICピーチも甘すぎて飲めない。もったいないが捨てて、SUBWAYへ。

水を買い、無事トイレへ。なぜかトイレの中に自転車が置いてあって、手を洗っている最中に倒れてきたがなんとか済ませた。

さて、アップタウンへ。

ガイドが25歳ぐらい。Tomという名。英語がわかればもっと面白かったであろうが、面白い話をたくさんしていた。

「NYは人種のるつぼ。自分もギリシャ人とオランダ人のハーフだ。父は調理人で、ある日、母がその店を訪れたんだ。その後、一週間後ぐらいに父が母を調理して・・・(乗客爆笑)」

なんて話や、「スターバックスはいい。この前、自分のカップを持っていったんだ。デカいのをね。それいっぱいで1ドルだったよ。いっぱいでだよ。飲むのに2日間はもったよ。お得だね」という話をしていた。

リンカーンホール、ハーレム、メトロポリタン・・・だいたい網羅していた。

17:00ぐらいに戻ってきて、とりあえず再びTKTSの価格をチェックしてみた。中には25%になっているものもあった。

疲れたので、帰ることにした。地下鉄は帰宅ラッシュだったので、さっき乗った、ダウンタウン行きのバスに再び乗った。

チャイナタウンで降りて、村越さんが薦めてくれたお店へ向かう。

店員に話し掛けられ、とまどっていると、奥のほうから、「Hot tea. or ice water?」という声が聞こえた。Ice Waterを頼み、席へ。

急に「日本人ですか?」という声が隣の二人から聞こえる。おっ、と思い「はい、そうなんです」と答える。

「はっ?って感じじゃない?」「でも、おいしいよ」という声を掛けてくれる。久しぶりに街中で日本語を話した。

チャーハンと豚肉の揚げ物を頼む。うまい。量もいい感じ。7.2ドルだったので、8ドルおいて、さっきの二人に「お先で~す」と言って、店を出る。

部屋に戻って、ビールを一本飲んだら眠くなり、バタン。起きたら4:00だった・・・。

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6/20(火)

8:30に出発。

昨日買った48時間のバスチケットで、サウス・シーポート10:00発のブルックリン一周バスに乗るために、サウス・シーポートに向かって歩く。途中、テレビの撮影みたいなのをやっていた。

9:00ぐらいには着いてしまい、そのへんをぶらつく。

近くのファーストフード屋さん(かなりこじんまりしている)に入り、照り焼きチキン、ライス、サラダ、水付きのメニューを頼む。

しかしこれは、昼食用のメニューだったらしい。おばさんが一瞬困った顔をしたが、奥に入っていって、ソッコーで作ってくれたみたい。とても感激し、「Thank you, Thank you.」と言って、店を出た。旅行者にとってはこんなことで、とってもうれしいものだと感じた。

ブルックリン周りのバスに乗る。

「どこから来たんだ?」「日本です。」「(デカイ声で)Welcome to NY!! 楽しんでいってくれよ。」というガイドさんとのやりとりが楽しい。

ブルックリン、いろいろ回るが、英語がわからないのであんまりわからない。マンハッタンほどのでかさがなく、庶民的。でもシャッターチャンスになるとバスを止めてくれて良かった。

あと、この2階建てのバス、生えている木の枝葉に頭をかすっていくのだが、ブルックリン周りの方が、当たりそうになる回数が多い。信号のライトの近くも通るし・・・。

戻ってくる。港の中を散策。結構なショッピングモールであることに気付く。上の階の方には、日本人好みの味付けの店もたくさんあるようで、日本人らしき観光客もまあまあいた。

ちょっと早いが昼食を食べる。ベジタリアンピザを頼む。まあまあの味。

食べ終わり、また赤いバスに乗り(かなり使える)42stへ。やっぱりミュージカルのことが気になっていたので、TKTSへ。そしたら、かなりの人が並んでいる。当日券も昨日よりもたくさん種類があった。だいたい50%だった。

少々様子を見ようと思い、あまり見てなかった、ロックフェラーセンター、グラウンドセントラル駅、エンパイヤーステートビルを見学。

ロックフェラーセンター、グラウンドセントラル駅、でかい。

エンパイヤービルは登るだけで16ドル。

登る前にテロ対策の荷物チェック。要所では結構行われている。80階まで登ると写真を撮る。

86階へ登ると展望台。

これは・・・、すごい。

上からの景色、ながめも最高。夜に来てみたいと思った。一周すると結構日本人がいる。一通りみて、降りようとする。

「86階→80階は階段でも下りられるからどうぞ。」と階段も紹介してくれたので、せっかくなので階段で降りてみる。

80階→1階は普通にエレベーター。今のエレベーターは早いもんだ。

これからどうしようと考え、国連へ向かってみる。日本の国旗をバックに写真を撮って、visitor入り口へ。

荷物チェックをして、見学の所へ。

大きな写真が飾ってある。国際貢献してきたおばあちゃん達の写真。約20枚中、日本人が4枚もあった。とってもいい表情をしているのを見て、感極まる。涙する。

階段を下へ。みやげ物売り場。

なぜか背伸びしたオシャレをした若い子達がいっぱい。全世界から集まっているみたい。Youthの何かであろうと思う。

国連を出て、どうするか迷う。

42stに向かって歩く。この日も歩き疲れてきた・・・。

なんとかTKTSに着いて、確認。まだいっぱい当日券があったが、行列はない。

THE PHANTOM OF THE OPERA の文字。オペラ座の怪人でしょ。聞いたことがあった。

迷う。帰りが遅くなりそうで迷う。

その表示板あたりにはミュージカルについて説明してくれる人がいる。

考えているふりをして、その人に微妙に近づいていく。

男性:「何か説明しましょうか?」(よし、きた!!)
自分:「THE PHANTOM OF THE OPERAはどうですか?」
男性:「これはラブストーリだ。7:00~9:30ぐらいだったと思う」
自分:「自分、英語がほとんどわかんないんです」
男性:「うーん、これなら?」
と言って、”HOT FEET”を指差す。
男性:「FEETは”かかと”だ。ほとんど話はない。ずーっとタップダンスなんだ」
ほう、と思う。
自分:「何時に終わりますか?」
男性:「10:45ぐらいだね」
ここで、また迷う・・・。
男性:「何を迷ってるんだい?お金かい?」
自分:「いや、終わり時間が遅いので・・・」
男性:「じゃあ、これはどうだい?7:00~9:00だよ」
と言って、次のを指差す。

ほう、また迷う・・・。

ちょっと距離をおいて考えていると、7:00~9:00のものが表示板から消える。

こりゃまずいと思う。でも、10:45に帰るのは怖かったので、思い切って、値段もわからないままPHANTOMを買いにチケット売り場に並ぶ。

本場ブロードウェイのミュージカルだから、高かったらやばいな~と思いながら、買ってみると、50%で30ドルぐらい。意外と安かった。

どこで見れるんだ?と思ったら、チケットに~~stと場所が書いてあった。

まずはその場所を確認しにいった。看板があったのですぐにわかった。

よし、と思い、晩飯のためにマックへ。

考えるのは夜帰ることばかり。多いポテトを残そうと思ったが、万が一連れ去られたら、お腹がへるかもしれない・・・、と考え全部食べる。(←その時は本気でそう考えていた)

途中、マックのおばちゃんが窓拭きにきた。右手で窓をふいているんだが、左手のボトルからは洗剤がぽたぽた落ちる。窓拭きにいっぱいいっぱいで、そのことに気付かない。英語で教えてあげられない自分も自分だが、Mr.Xのマックの店員の話を再び思い出した・・・。

6:00には劇場前へ。まだあまり人はいないけど、5人ぐらいが並んでいる。「ボックス席はこちらへ」などの看板がある。

近くから、日本語が聞こえる。おばちゃん2人だ。

自分:「すいません、これって、並ばなくてはいけないんですかね?」
おばちゃん:「でも席って決まってるんでしょ?」
などと声をかける。

2人は姉妹で、妹さんの息子2人がアメリカで仕事をしており、そのうち1人が出張でNYに来ているので、それに合わせて旅行とのこと。

時間が経つにつれて、だんだん並ぶ人の列が大きくなっていく。並ぶかを迷ったが、息子さんが着くのを待つ。

列を見てみると、ドレスアップした女性が多い。家族連れも多い。アメリカ人にとって、ミュージカルを見るというのは一大イベントらしい。明らかに男性が勝負を賭けているであろう、男女の二人組みも見受けられる。男性が一生懸命オシャレをしていて、とってもキレイな女性を連れていた。

息子さんが来た。その頃、「6:30にしかドアがひらかないから、どこにいても同じだよ~」という黒服の黒人スタッフ(かっこいい)が、ミュージカルを見に来た人達の気持ちを盛り上げる。

中に入り、おばさん達に名刺を渡して別れ別れ。

席はH127。席を探したが、124,126,128,・・・?!。127がない。

スタッフに聞いてみると、この席は左半分だ、とのこと。そっちに行ってみると、125,127,129と奇数番号が並んでいた。

座る。内部はとてもいい雰囲気。アメリカ人にニコっとしながら、前を通してあげる。きれいな女の子がとびっきりの笑顔で「Thank you!!」と言ってくれると、とっても嬉しい気分になる。

スタートする。真っ暗になる。

暗くなると、途中から来る人がとても目立つ。背丈、歩き方から、どうやら日本人女性が多い。現地の人は6:15から特別なものを待っている雰囲気なのに・・・、と少々悲しい気持ちになる。

ミュージカルは・・・、5%ぐらいしか言葉がわからない。(汗)

でも、笑い、悲しみ、怒り・・・。演技力があるからなのか、ストーリーはきちんとわかる。

1時間後ぐらいに、10分ぐらいの休憩がはいる。ここでトイレに行列が出来るのは日本の劇場などと同じだな、と感じる。トイレに時間が掛かって、遅れて入ってくる女性が多いのも・・・。

ミュージカルはクライマックスへ。最後のあいさつをするときには、スタンディングオーベーション。素直に拍手喝采を送りたいと思った。我先にと、席を立ち上がり、拍手を送った。感激した。

帰ろうとする。夜の街にかなりビビる。

デカいスクリーンではNBAファイナルをやっていたが、足早に地下鉄へ。

中高とバスケ部だった自分にとっては、NBAファイナルがどのようなものであるかは知っていた。

でも、身の危険(勝手に感じている)は、足早に宿に向かわせるには充分だった。

地下鉄、予想に反し、かなりの人が乗っている。これは大丈夫だと確信する。

キャナルstの駅に戻る。ここから部屋までの方が、暗くて少々怖かった。

部屋にもどり、リビングでNBAを見ている村越さんを発見。

ビールを飲みながら、いろいろ話をする。

ヒート優勝!!この瞬間をテレビといえども、アメリカでライブで味わえて良かった。これは一生に一度のことかもしれない。いい瞬間を味わえた。

また、これだけの番組の時にCMを入れているということは、儲かっている証拠だと思った。その中には日本の自動車メーカーのトヨタ、ホンダ、マツダなどがやっていた。日産はやっていない。(その後、日本に帰ってきたら、日産は景気が悪いことがわかった。予想が当たっていた。)

また、日本でのCMとはまったく違うものを放映しているのにも驚いた。あと、他のCMも突拍子もないアイディアで見ている人を引きつけるCMばかり。すごい時にテレビを見れたものだと思った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

6/21(水)

早朝母親に電話。向こうは夜。異常なしとのこと。

9:00に出発。

キャナルstのマックで朝食。ボトルのwater(1ドル程度)を頼んだつもりが、カップに入った氷水(無料)がでてきた。ラッキーと思いつつも、英語力の無さにへこむ。

3日目にふらりとはいったアウトレットの店に行こうと思い、着いてみたら、周りにいろいろいい店があることに気付く。

TVの通販の商品を集めてある、日本で言うとドンキホーテみたいなショップもあった。これはいい、とお土産をまとめがい。

1枚2ドルのエロDVD(ノーカット)を発見。質は悪そうだが、これこそお土産にちょうどいいということで、20枚まとめて買ってみた。

レジで、店員の人に笑われたが、笑い返した。「旅の恥はかきすて」。この場をどうやって乗り切るか考えたときに、これが自分の精一杯だった。

荷物が多くなってきて、帰国用のバック(車輪付きで、日本で買ったら5000円は下らない)を買うか迷ったが、他の場所にもっといい物あるかもしれないと直感で、そこでは買わず。

その裏の通りあたりをグルグル回る。なぜかバック屋が3軒ならんでいるところにでる。こここそ自分の求めているものがあるかもと、期待する。

車輪がついて引きずることができて、ナップサックのように背負えるものを発見。こんなのが欲しかった。値段を聞くと、いつもは24ドルだけど、20ドルでいいよ。と言ってくれる。

商売文句かもしれなかったが、これが2200円ぐらいというのは日本では考えづらい。ナップサック1つにしても2000円ぐらいしそうなのに・・・。即購入。いい買い物をした。買い物したものをバックにつめ、コロコロ転がしながら、いったん部屋に向かう。重たい思いをしていた頃と比べると、転がすのはとても楽だと気付く。

部屋に戻ると寝てしまう。

19:00頃、村越さんから薦められたことがあるラーメン屋に向かう。味噌ラーメンを頼む。普通に日本で出される味噌ラーメンとほとんど変わらない。日本人にとってはかなりポイントが高いお店だと思う。

その後、夜景を見ようと、ブルックリンブリッジを歩こうと考える。

8:00ぐらい、橋の真中あたりのベンチに座り、日が暮れるのを待つ。

座っていると、となりに3人の女の子が座る。

最初は気にとめなかったし、意外に騒音があったらしく、話し声はきこえなかった。

が、「そう、そう。」という言葉が聞こえてきて、ムムっと振り返ると、日本人だった。「あの~、日本人ですか?」と会話が始まった。向こうは自分のことを現地の中国人だと思ったらしい。

NYでダンスを勉強している3人だった。1000ドル/月のレンタルアパートみたいなものをネットで見つけて、4週間会社を休んで乗り込んできたとのこと。ダンスをやっている人にとっては、NYは聖地なのかもしれないと思った。

運命の出会い・・・か?

暗くなるまでお話して、夜になったら写真を撮った。

途中まで一緒に帰り、名刺を渡して、それぞれ帰った。

部屋にもどって、シャワーを浴びて、ビールを・・・とリビングに行くと、村越さんが夕食中。ビール片手にお話をした。

6/22(木)

朝起きても疲れている。ビールの飲みすぎか?

9:00頃、歩いていたら、通学中の村越さんに会う。お勧めのCAFEで朝食。(孔子像の近く。)林さんは結構使うらしい。店員の中国人が可愛い。specialbreakfastを頼んだ。

食べ終わったら、canal.streetから110steetへ。

結構時間が掛かる。

降り立つと・・・、ヤバ目&危険な雰囲気。セントラルパークを北側から歩こうとしたのは失敗か・・・?とビビりながら足早にセントラルパークへ向かい、最北東端にたどり着く。

あとはパークの中を歩いたり、パークに沿った外の道を歩いたりしながら南下。

最終日はキツイ。休み休み歩く。

途中で貯水池を見たり、パークの中で野外授業をしている学生を見たり・・・。

メトロポリタン美術館に着く。片道さんはここで冊子を配ったのか・・・と思いながら、でも中を見る元気が無くて、もったいないが、さらに南下。初日にへばった72stの所に着く。

そのまま西へ。ストロベリーフィールズを見たのち、レノンとヨーコが住んでいて、レノンが打たれたマンションの前に着く。日本人が数人いた。(しゃべっている言葉でわかった)

その後スクエア12という映画館の中だけを見て、その辺のスーパーでカットパインとオレンジジュースで昼食。思いもよらず満腹になる。

しかし、気付いたら、座って食べていた所はプライベートパーク。「No food」と書いてあった。(汗)

リンカーンセンターを見て更に南下。

そのあたりに駅があるはずだと思ったが、ない。結局ガイドブックが間違っていることに気付き、49stまで下る。
地下鉄に乗って28stへ。

W杯日本-ブラジル戦を中継する所へ行く。外でアンケートを書いて、中へ。村越さんと友人4人がいた。ビールを飲みながら試合スタート。結構日本人がいて、50人ぐらいはいた。試合は先取点の所までは盛り上がったが、4-1完敗。川口がいなかったら8-1ぐらい。

canal stまで地下鉄で下って、味千ラーメンでギョーザ、春巻き、照り焼きチキン、ビールを頼み、一人で乾杯。旅の疲れを癒す。

戻ると、中国人(多分)とエレベーターではちあわせ。その人は住民だと思っていたらしく、「あなたの名は?」と聞いてくれて、握手をしたが、「旅行者です」とは言えなかった・・・。(汗)

旅の帰り支度をした。

荷物は全て機内に持ち込みたかった。そうでないと、乱雑に扱われたり、引き取るのに時間が掛かると思ったから。

$20で買った背負えて引きずるやつには、すべてがはいりきらない。

確か、AAの行きのどこかで、「持込荷物は一人1つまで」(←当然英語。思い出せない)というフレーズがあった。

まずい、どうしようと考えた末、旅行の最初に持ってきた小さなビジネスバックに機内で必要最低限の荷物を入れ、それを折りたたんでビニール袋に入れて、いかにも、空港内で最後のお土産を買って荷物が増えてしまったことを装おうことにした。

めでたく、荷物が整った。

その後、スーパーで買っておいたビールが残っていたので、一人で晩餐だと思い、飲みながら、旅の思い出を記す。

途中、村越さんが帰ってきていて、テレビをつけていたので、リビングで一人飲む。(村越さんは仕事中だったと思う。)

一人でビールを飲み終えて、シャワーを浴びて寝に入る。多分22:00ぐらいだったと思う。

6/23(金)

5:00頃目が覚める。

時差ずらしにはうってつけだと思い、起きてシャワーを浴びる。

その後、その辺を散歩でもしようかと思ったが、持って帰るのに荷物になる本田健さんの「ユダヤ人大富豪の教えII」を読み返す。

また新たな気づきがあって、持って帰ろうかと思ったが、日本ではまた買えばいいと思ったし、個人的にこの本はいい本だから、他の誰かにも読んで欲しいと思って、ここに置いていくことにした。

8:00ぐらいになって、荷物を整えて、村越さんにここに置いていくものの説明をした。

水も余ってたし、小さかった(はいていない)トランクスも何かの役に立てばと思って置いていった。自分の扱っているサプリメントも日本に帰ればあるので、村越さんの食生活が乱れそうだったので、すべてプレゼントしておこうと思い、そうした。

8:30頃、仲本さんが迎えにきてくれて、村越さんと握手して出発。朝、林さんと「おはようございます」とだけのあいさつで、「お世話になりました」と言えなかったのが心残り。

ブルックリン方面に向かい、3週間ぐらい英語を勉強している学生(名前忘れちゃった)をひろって、空港へ。

「このあたりはユダヤ系の金持ちが住んでいて、いい家並みだよ~。そっちの通りを越えると黒人だらけ。」

「英語はね~、DVDの字幕を見ながら、とにかく口に出して練習だよ。口から出た音が耳に入って、耳が覚えてるんだ。根気良くやってみるといいよ。だから好きなDVDを選ぶといい。興味を持たなきゃ。6ヶ月ぐらい経つと、おっ、と変わる瞬間が訪れるよ。」

なんてお話をきかせて頂き、いや~、勉強になりました、という感じでした。

学生の子と、AAの東京行きはどこだろね~と言いながら、まあ、チケット見せて「どこ?」って聞けばどうにかなると思い、そうしたら、教えてくれた。

だんだん英語を覚えようとしない(楽をしようとしている)行動に出るようになってきたが、日本に戻ったら、DVDを見て勉強だ・・・、なんて考えていた。

チケットカウンターで、自分の番が来て、荷物を機内に持ち込むには、ここが勝負と臨む。

パスポート見せて、怪しまれないようにあえてリュックのように背負って、プラス、ニコニコ自然な笑顔で(←そう考えているだけで不自然さは拭えなかったとは思うが・・・)

やりとりをする。

社員:「あずける荷物は?」
自分:「No,Thank you.」
社員:(うなずく)
自分:(よっしゃー。)
おおげさに書いているようだが、自分にとっては、昨日から策を練っていた通りに事が進んだので、嬉しかった。(ここでも小さな男だな・・・と感じる。)

X線の検査も、なるべく旅行者の雰囲気をかもし出した。

身に付けていた金属製の名刺入れがピンポーンと鳴ってしまったが、おどけながら、「ああ、これが鳴っちゃったんだね~」と言わんばかりの笑顔で切り抜けた。

「笑顔は言葉を超える武器だ」と改めて感じた。

さて、機内に乗り込む。

隣は多分、日本人女性。

話掛けたいが、チャンスを伺い、あえて話かけない。

そのうち、離陸。

出国の時にも感じたが、この離陸と着陸の寸前の眠気って何だろうと思う。何かの気圧の変化が眠気を誘うのかな・・・。周りを見渡すと、結構寝ている人がいたので、そう思った。

離陸し、安定飛行。

隣の女性のイヤホンがないらしい。
女性:「日本人ですか?」
自分:「はい。」
女性:「イヤホンなくないですか。」
自分:「(探して)あっ、ないみたいですね。」
女性:「英語しゃべれます?」
自分:「全然ダメです。でもゼスチャーでなんとかなりますよ」
と言う話の後で、自分は静岡で和菓子屋、その女性は東京でグラフィックデザイナーをやっているなどの話をした。

3泊5日でキャラクターの買い付けだと言っていた。正直、グラフィックデザイナーの仕事は良く分からん・・・。

でもグラフィックデザイナーの仕事が楽しいと言っていたので、いいね~とお話をする。何か繋がるかもしれないと思い、自分の名刺だけは渡しておいた。

その後、乗務員が通り掛かったので、その人に向かって、両耳を指してイヤホンをつける仕草をして、二人ともない仕草をし、「No,No.」という。かなりメチャクチャな英語。

でも通じたらしい。2人分持ってきてくれた。

その後、機内食食べて、寝て、食べて、寝て。

成田に着く。

女性と、「お疲れ様でした」と言って別れて、足早に帰路に着く。

途中、携帯電話を返す位置がわからず、少々むかつきながら、京成線に乗る。

18:30頃、新富士について、19:00頃に実家に帰る。

96才の祖父、90才の祖母が出迎える。

最近涙もろい二人が、「無事に帰った」と言って、また泣く。

泣かれるようなことをしていたんだ・・・、と思いながらも、いい旅立ったよと、お土産を渡しながら、夕飯を食べる。

日本食は合っていると感じる。

今まで何気なく食べていて、当たり前だと思っていたご飯がとても美味しく感じる。その後、風呂に入って、お湯につかる。

お湯につかれるのも当たり前だと思っていた。

歯を磨く。

旅先の歯ブラシと違って、家に置いてある歯ブラシの使いやすいこと、使いやすいこと・・・。

家っていいな~と、再認識する。

今まで当たり前だったことに、感謝しなければと思った。

一人旅を続けていたときは、一人で生きていけることを感じていたので、「家族がいるから、自分の可能性が狭められるんだ」と思っていたが、「居心地の良さをかもしだしているのは、家族なんだ・・・」と自分が小さく感じられた。

祖父・祖母・母を抱えながら生活してきて、自分の愛する嫁さんならまだしも、次男なのに重いものを背負いながら過ごしているな~と思っていた。

感謝しなければならないのは自分の方だろうと気付く。

これがこの旅一番の気付きだった。

旅の良さについて、平先生やMr.Xはこのことも言いたかったのではないかと考えた・・・。

(終わり)

追伸
無事持って帰ったDVDをチェック。一枚見れないものがあったものの、あとはPCで認識できた。
CSS(DVDのプロテクト)はかかっておらず、4時間という長い映像でも片面一層(4.3GB程度)に入れてあるので、画質はそんなに良くない。この辺はサラリーマン時代に専門だったので、解析は余裕だった。複製が容易なので、こういうところから海賊版DVDが作られていくんだろうなと感じる。元値が一枚200円程度、ブランクのDVDディスクが20円ぐらいとして、一枚1000円で100枚売ったら、原価率2.2%。摘発される業者があとを絶たないのが分かる気がした・・・。

制限される旅の感想
・生きていくために、行動しなければならない状態になっているのが良い。
(食べ物を買うとか、トイレを探すとか・・・)
・夜が一人暇で、いろいろと思いがはせられたの良い。
・同じことをしないと心がけると良い。
 同じ道を通ったり、同じ食堂を使っても、気付きはなく、感動、感激は少ない。
・笑顔はいい。笑顔は言語や文化の壁を越える。

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「マイナス水素イオン入りたまご餅」開発秘話

毎日水素入りたまご餅
開発にいたるまで 



春埜製菓店主の望月です。

毎日水素入りたまご餅とは
「マイナス水素イオンパウダー」

が配合されたたまご餅です。

この毎日水素入りたまご餅が製品となるまでは、
いろいろなきっかけ、ターニングポイントがありました。

まず、マイナス水素イオンパウダーを知ったのは、2005年4月のことでした。

当時、たまご餅の日持ちを長くしたいと考えていた私は、
何か良い方法はない物だろうかと、日々考えていました。


実は・・・・。

1年前に卒業した製菓学校で学習したことから、
食品添加物を使えば、
日持ちするのはわかっていました。

しかし、私は食品添加物を使う気にはなれませんでした。

父親を健康上の理由で亡くした私は、
体に有害な食品は作りたくないと思ったからです。

私は、大学院で化学を専攻した経験上、
食品添加物の名前を見れば、
どのような化学式で
どんな薬品であるかがわかります。

もちろん、体に害がありそうだということも・・・。

その食品添加物、
厚生労働省が管理・統括しています。

その厚生労働省の調査で、
人体に害はないと判断した時、
もしくは、この少量ならば害はないと判断した時、
使用許可がおります。

裏を返せば・・・、

厚生労働省も
食品添加物が体に害があるものだということを
知っている訳です。
(中には有害ではない物質もあります)


なので、そのようなものを入れた菓子は
作りたくないと思っていいました。

そこで私がお世話になっているお菓子好きな先生から
こんな素材があるよと紹介されたのが
「マイナス水素イオンパウダー」でした。

その時、「マイナス水素イオンパウダー」の
化学的理論と可能性を理解できました。

大学院で化学を専攻していたからです。

こんなところで、以前勉強してきた
化学の理論にお世話になるとは
夢にも思っていませんでした。


でも、その時は、餅に対する効果は
期待できないだろうと考えていました。

そのため、そのパウダーはハートフルクッキー
配合することになりました。

時は経ち、その約1年後の2006年3月のある日。

あることがきっかけで、パウダー開発元の
Y常務に当店のたまご餅を食べて頂く機会がありました。

このY常務、実はプロ級の料理の腕を持ち、
その味覚は絶大なものを持っているお方です。

料理店の指導なども行っており、
私個人的には、料理などの方向でお仕事をなされた方が
いいのではと思われるほどの方です。

Y常務が一口、たまご餅を口に入れた時・・・・、

いつもの優しい常務の目から、
とても集中している目に変わりました。

私はその変化に驚いてしまったため、
今でもはっきり覚えているのです。

常務が一言、

「これにパウダーを入れてみませんか?」

私はびっくりしました。

加えて、

「皮のなめらかさが変わるはずです」

その後、私は大急ぎで開発を始めました。

開発一回目。

すぐに、いつもと雰囲気が違うことに気づきました。

自分が水分量の配合を間違えてしまったと思い、
いつもよりと違う水分量で作成をしてしまいました。

その出来上がったものは、
やはり水分量が違うものとなり、
失敗してしまいました。

そして何回も試作を重ね・・・。

やっと納得のいく製品ができあがりました。

餅のコシ、歯切れ、舌触りが変わり、
美味しくなりました。

餅が固くなるまでの時間も延びました。

しかも、元々健康を保つために作成された
食品なので、健康に良い。

パウダーを配合することにより、
「美味しい+健康に良い+変な食品添加物を使わない+日持ちがする」
という一石四鳥ぐらいの菓子に生まれ変わりました。

もし、自分が化学を専攻してなかったら・・・。

もし、父親が亡くなってなかったら・・・。

もし、菓子屋を継ぐ決心をしなかったら・・・。

もし、お菓子好きの先生に出会わなかったら・・・。

もしあの時、Y常務にたまご餅を食べて頂かなかったら・・・。

この商品は生まれませんでした。

すべての出会いに、すべての機会に感謝したいと思います。

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マイナス水素イオンがペットにきく?!

マイナス水素イオンがペットに!?

弊社が扱っている「マイナス水素イオン」。

「目に見えて」の効力は人間よりも、同じ生物である「ペット」の方が凄まじいです。

実は、材料の面から安心して犬に食べさせられる「ワンチャンクッキー」も存在していて、喜びの声が届き初めています。

・毛並みが良くなってきます。
(調教師さん)

・歩けなかった15歳のコ、元気に走るようになりました。
(川根町 飯塚さん)

・ポメラニアンですが、心臓病で咳をします。咳き込むと口から泡を吹く状態になります。特に冬がきついようですが、最近治まってきているようです。
(浜松市 村松さん)

・老衰で動けなくなっていましたが、クッキーを砕いてあげてから一ヶ月で体を少しずつ動かせるようになりビックリしています。毛が生え替わってきています。
(静岡市 河守さん)

私が思うに、ペットの体調が悪くなるのは無理もありません。

私はペットフードが悪いと思います。

我々人間にとっての食べ物規制は厚生労働省が厳しく監査をしていますが・・・、

ペットフードには、そういう規制がないのです。

何をどれだけ入れても、商品として売ってもOKなのです。

多分、食品添加物に属するものが大量に入っていて、食いつきが良くなる香料が含まれているだけだろう・・・。(知り合いのペットフード店主談)

そんな話をききました。

その証拠に、ペットの糞は風化しないで、2~3ヶ月原型をとどめている。

これはペットフードに大量の防腐剤が含まれているからです。

ペットが家族のように大切に想う方、
お気をつけ下さい。

また、「このコの、この症状をなんとか抑えてあげたい」と思う方
お気軽にご連絡ください。

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由比町再生計画

由比町は・・・。

弊社のある由比町は日本一の桜えびの町として有名になってきました。

桜えび漁がある、春と秋には静岡県だけでなく、
県外からもたくさんの観光客が桜えびを食べにいらっしゃいます。

最近は東京など関東からのお客さんが多いように思います。
車で東名高速を使って2時間程度、
新幹線を使っても2時間ぐらい、
中にはJRの各駅停車を使って3時間ぐらいで
ユラユラきたという方もいらっしゃいましたし、
ドライブがてらに下道を使って、箱根の山を越えて
4時間ぐらいで由比町についたという若いカップルや、
バイクでツーリングしてきたという方もいらっしゃいます。
さすがは東海道の宿場町。考えてみると、交通の便は良い訳なんですね。

さて、その由比町、桜えびの町として栄えている・・・と想像するかもしれません。

でも、町政は厳しく、衰退の一途をたどっています。

桜えびはテレビで全国放送され、あの漫画「美味しんぼ」でもとりあげられるほどなのに、
地元の漁業者は苦しい思いをしています。

潤っているのは、桜えびを仕入れて、売っている由比町外の業者だけ。

由比町に住む私にとってはそれが悔しくてたまりません。

どうしたら良いのか考えたところ、あるアイディアが浮かびました。

名付けて、「健康長寿の町、由比町」。

そのまんまなのですが。(汗)

構想はこうです。

由比町を理想的な一次産業の町にします。

安心・安全・健康に関心が高まっている中、
桜えびはもってこいのものなのです。

まず、一般的なえびの栄養成分「アスタキサンチン(抗酸化成分)」は
殻・ひげ・足など、普通食べられないところに多く存在します。

大きな伊勢えびと違って、桜えびは丸ごと一匹を食べます。
なので、普通のえびよりも、栄養面では比べ物にならないのです。

そして、丸ごと一匹を食べることで、さらに良いことがあります。
殻に含まれているカルシウムなどは
タンパク質(えびの身に含まれる)と一緒に食べると
吸収が高まるという学術データがあるのです。

何を言いたいかというと、
「えびサプリメント」みたいに
「えび1000匹分の殻のカルシウムを抽出してカプセルにしました」
という商品で、高い値段の商品よりも、
丸ごと桜えびを一日の食事で食べるほうが
負担も少なく、自然な形なのではないかと思うのです。

このあたりの話は静岡県立大学教授、
富田勲教授の協力を頂き、活動を始めています。

昔はサプリメントとか、抽出したものとかがない時代にも
人間は健康に生きてきたのです。
そういうものは必要ないのではないかと思います。

桜えびのアドバンテージはこのぐらいとして・・・。

本題はここからです。

由比町の農業を確立させます。

普通の農作物を作っても芸がないので、
美味しくて、安心・安全で、栄養価が高い野菜をつくります。

この野菜の作り方は、第一の目処が立っております。
実は生ゴミを堆肥化した肥料を使って作ると、美味しい野菜ができます。
これは、「NPO法人志太生ゴミ堆肥研究会」と共同で話を進めています。
ゴミも減るし、環境にも優しい。
藤枝市の方では市や町を司る団体や政治家も動き出しているようです。

私の家も、少々の畑があるので、簡単な生ゴミ処理する場所を作り、
家庭菜園的な野菜を作ろうとしている最中です。

学術的に立証され、環境に優しい地域ブランドが立ち上がれば、
あとは買い手から声が掛かると思います。
もし売れなくても、自分達が栄養価の高いものを食べていければいいという
自給自足の考え方で、多少収入が低くても
生きていくことは可能だと思います。
日本人は元々農耕民族だったのですから・・・。

さて、せっかく農作物を育てるならば、
もともと栄養価が高い農作物を作成する活動も
初めています。(前述の富田教授の知恵をお借りしながら)

そして今後「趣味の農業」が確立してくると思うので
趣味・観光の農業を確立していけば良いと思います。

東京の人に収穫ができるサービスをしたり、
畑を持ってもらったり、
由比町にきたら、桜えびを食べて帰ってもらう・・・。
このあたりの活動もスタートしています。

そして由比町の人達にとっては
生涯現役として、イキイキと過ごして欲しいと考えています。

直感的にわかると思いますが、
老人福祉ホームにいるのと違って、
農業をやっていると体と頭を動かすので、ボケません。
その活動がそのまま生活の糧につながります。
家族の負担も減っていきます。

農場には、
子供の学習場としても学ぶべきことが
たくさんあると思います。
今、政府が掲げている「食育」の観点からも
とても良い場だと考えます。

由比町全体が
高齢者はイキイキ過ごせる老人ホームのようなものであり、
勤労者は地域ブランドの食物を日本全国に配信する会社員のようなものであり、
学生にとっては、いろいろなことが学べる教育にもってこいの場所・・・。

そんな場所に生まれ変われるのではないかと思います。

いろいろな物が足し算ではなく、掛け算で広がっていき、
まだまだ、アイディアは尽きません。

まだスタートしたばかりの
かなり壮大な計画ですが、
できることからコツコツと進めていきたいと思っています。

また、この計画に協力して頂ける方、
いらっしゃいましたら、ご連絡頂けたらと思っています。
宜しくお願い致します。

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2005年11月講演会

2005年11月と12月と2回、
「健康と機能性食品」という演題で講演をさせて頂きました。

・私の生い立ち
・今の人生を志すきっかけについて
・機能性食品について
・健康に関しては「旬の野菜を食べるのがなぜ良いのか?」
・私の今後の展望と心掛けていること
などをお話しました。

こんな若造のお話をきいてくれる方々がいてくれて、
とても感謝したいと思います。

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経営者になってみると

経営者になってみると・・・

菓子自営業を目指して会社を辞めた私は、
菓子の基礎を叩き込むべく、製菓学校に通いました。

同期にはいろいろな人がいました。

高校卒業してお菓子の道を目指した人。(18歳)

中学を卒業して、お菓子の道を目指た人。(15歳)

いろいろな人に出会いました。

びっくりしたのは、中学卒業の子と同じ「辰年」だったこと。(当時27歳)

一回り違う子と同じ授業を受けました。

いい経験になりました。

卒業後、本格的に経営者になったのですが、

思いもよらなかったことが待っていました。

会社を辞める時に悩んでいたことが、大したことでない事で悩んでいたんだな、と思えるぐらいに・・・。

まず、「捨てた」と思っていた、「化学」のキャリアと、「IT」のキャリア。

私が言うのもなんですが、菓子は「化学技術」の塊だったのです。

なぜ、砂糖が原料になっているのか?(甘味をつけるためだけではないのです。)

なぜ、このタイミングで小麦粉を入れるのか?なぜ、一番最初から混ぜてはいけないのか?

なぜ、卵は泡立つのか?なぜ、卵を泡立てる必要があるのか?

その他多数・・・。

この辺りの菓子製作の原料や作り方は、すべて理由があります。

そこを奥底まで理解するには、「化学の知識」が必要だということに気付きました。

理解できると、逆に、効率的・効果的な方法を思いつきます。

これとこれは最初から混ぜた方が効率が上がって、時間短縮になり、お菓子を低価格で提供できて、お客さんに喜んでもらえるな・・・。

この工程は、熱が必要だから、極限まで熱を加えると美味しいものができるな・・・。

これとこれは最初から混ぜてしまえば、効率は上がるけど、美味しいものを作るためには、混ぜてはいけないんだな・・・。ここが手間暇掛ける必要があるところなんだな・・・。こだわって作るためには、ここで手を抜いたらいけないんだな・・・。

このような美味しいお菓子を作るためのことを、いつも考えられるようになりました。

というか、気になってしまい、イヤでも考えてしまうようになりました。(汗)

なので安心して、当店のお菓子を食べてください。(笑)

また、このHPはすべて私が作っています。

以前の会社で習得した「ITの知識」がいきています。

正直な所、もっと時間があれば、もっとキレイなレイアウトで、見やすいHPを作りたいのですが・・・。(汗)

そして、思いもしなかった、人の縁が私を包みます。

一番感謝すべくは、
静岡No.1コーチングコンサルタントの「妹尾先生」です。

経営や人生の目的達成を教えて頂きました。

またその他、たくさんの経営者クラスの方(会社社長や取締役)、大学の教授、法律や財務などの専門家・・・。

本当にいろいろな方々に出会わせて頂きました。

そして、その方々皆さんに助けられています。

経営も、「人の繋がり」だと実感しました。

私、人の縁に恵まれて、とてもありがたい人生を送っております。

その方々へ、恩返しをしたいということが、私の原動力になっています。

とても良いスパイラルが起こっています。

本当にすべての出会いに感謝したいと思います。

経営者になると、こんな思いもしなかった世界が待っていました。

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なぜ、菓子屋を継いだのか

あなたは何で菓子屋をやってるの?

私、望月友晴、良く言われます。

「早大修士まで出て、なんで菓子屋なのの?」
「理系を極めたのに、なんで静岡で菓子屋をやってるの?」
「一流の会社に入ったのに、なんで菓子屋を継いだの?」
「キャリアを捨ててまで、なんで瀕死の菓子屋を継ごうと思ったの?」
「IT系の仕事から菓子屋への転身?なんでまた?」
・・・その他多数・・・

総括すると、「これまで頑張ってきて、普通の人が歩めない生活が待っているのに、『もったいない』」っておっしゃるんです。

学歴つけて、いい会社に入って、たくさん給料もらって、いい生活できるのに・・・。

でも・・・、

私から言わせると、『もったいない』は違うことなのです。

今、私が一番『もったいなかった』と思っていることは、

「東京の大学に行っている間中、父親と過ごす時間が取れなかった」

これに尽きます。

私の父親は修士1年の時の1月に亡くなりました。

父親は大学4年間を卒業したら、就職をしてもらいたかったようです。

でも私は、まだまだ未熟な気がして、大学院に進みたかった。

生前、それを正直に父親に話しました。

「友晴が行きたかったら、行ってもいいよ。でもきちんと卒業するんだよ。」

と最終的に賛成をしてくれました。

大学院に進んだはいいものの、勉強嫌いな私、大学院の勉強はきつかったです。

辛いし、興味は持てないし、態度が悪くて先生には怒られるし・・・。(古川教授、当時は大変ご迷惑をお掛けしました。(汗))

怒られると、興味は持てなくなって・・・、悪い方へ悪い方へスパイラルが起きてしまいます。

何度となく大学院を辞めようと思いました。

「ゴメン、大学院辞めてもいいかな?」と父親に相談しようかと思っている矢先・・・、

父親を病魔が襲いました。

肝臓ガンでした。

そんな状態で、「大学院辞めてもいい?」なんてとても言えませんでした。

言える訳ないじゃないですか。

結局、私のその思いは秘めたまま、父は逝きました。

父親を亡くした時・・・、

「これ以上を化学の研究をしたって、父親は生き返らない。」

その思いが私を覆いました。

すべてのことが、どうでも良くなりました。
自暴自棄になりました。

化学の研究なんて、どうでも良くなってしまい、
「東京の大学に行っている間中、父親と過ごす時間が取れなかった」
ことがとても悔やまれました。

でも、それと同時に、

「友晴が行きたかったら、行ってもいいよ。でもきちんと卒業するんだよ。」

という父の言葉が残りました。

『父との約束。これだけは成し遂げなくてはならない。』

その想いだけで、大学院を修了しました。

大学院を出た後、私は興味のあったIT系の仕事に進みました。

化学からは全く離れました。

興味は湧くし、面白い。

途中、関西に飛ばされることもありましたが、とても充実した生活を送れました。

関西に飛ばされた頃(飛ばされた頃も身に堪える経験をしましたが・・・(汗))、「人の本当の幸せって何だろう?」と考えることが多くなりました。

一生懸命仕事をして、体調を崩した上司が、今まで自分で稼いだお金で自分の体調を回復させて、仕事に戻り、一生懸命仕事をしているという現実を見ました。

私はこれは違うだろうと思いました。最初から仕事をしないほうが、もしくは収入が低くなっても体に負担を掛けない仕事を選んだ方が幸せだと思います。

また、その頃、私の兄(長男)が「建築の道」という進みたい道を決定しました。

ここで、私は悩みました。

・このままでは、何年か先に、実家の菓子屋が潰れる。

・実家には祖父・祖母・母親が残っている。

・今なら自分がやりたいように出来る自営業を選択できる。

・自営業ならば、普段頑張っていれば、必要な時に時間の融通が利く。

いろいろ悩みましたが、相対的に考えて、実家を継ぐことが一番幸せだと思いました。

その2ヶ月後には、退職願を出しました。

「なんで菓子屋なの?」

実は、このような事が複雑に絡み合っているんです。

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2003年4月東京→関西異動など

人事異動(2003年4月~)

人事異動って、普通の会社とかだと、1ヶ月前ぐらいに、それとなく知らされるらしいですよね。

しかし私はサラリーマン時代だった3年前に、辞令前日に東京→大阪行きを聞かされました。

明日の社員集合では、みんなの前で一言挨拶を頼むと・・・。

なんで前日かと言えば、「他社にどこの事業部を強化しようとしているかがバレるから」と事業部長が言ってましたが・・・。

辞令なので、「行きなさい」。行かないことはクビという事になる訳です。


入社10年ぐらいは、給料が安くて有名な大日本印刷という会社のサラリーマン時代、自分が所属していた事業部は、何時に帰っても残業代が一定額(自己采配で仕事を進める、いわゆるフレックス)で、夜は休憩所でテレビを見ていても文句を言われませんでした。

で、3年前、休憩所でサッカーの試合を見ていたんです。

2003年3/28(金)のことでした。

そのサッカーの観戦中に事業部長がワタクシめの後を通りかかり、「おっ、サッカーどうだ?」なんて話し掛けたりしたんです。

また、一方では、その日は人事異動が近い日でもありました。

異動がある場合は、3/31(月)に人事異動の内示が出ることは知っていたので、金曜に何も聞かされないということは、異動はないだとうと思っていました。

そんな感じだったので、その土日もフワーっとして過ごして、月曜日に普通に会社に行ったんです。

近くのセブンイレブンで朝飯買って。(いつも出社して朝一のメールチェックしながら食べてました。)

朝食を食べ終わったタイミングを見計らったかのように(実際見計らったらしい)、室長が声を掛けてきました。

室長「もっちー(←私のこと)、ちょっといい?」

私「はい?」

室長「ちょっと下の階へ・・・。」

私「???。はい。」

「お、これは異動か?市谷の企画ビルにでも行くのかな。」なんてドキドキしながら2人でエレベーターに乗って会議室へ。

そこには金曜日のサッカー観戦時に声を掛けてくれた事業部長が・・・。

事業部長「もっちー。今日は君がビルの中で一番最初の通達相手だよ。」

私の心の中(!!!。普通じゃないぞ・・・。)

私「えっ、最初ですか?」

事業部長「うん・・・。」

(一息おいて・・・。)

事業部長「関西商印に行って欲しいんだ。」

私「!!!。(言葉が出ない)」

(うろたえて、数秒流れる。)

私「関商って・・・、関西へ行くってことですか?」

事業部長「うん。そういうことになる。」

・・・・・・。

今思い出そうとしても、この後の事業部長とのやりとりを覚えていません。

そうとうショックなことがあると、人って現実逃避するんですかね。(汗)

というかですね・・・。

金曜のサッカーを観戦していた時には、完全に決まっていたんです。

教えてくれたっていいじゃん。(今だから笑える)

ということがあったので、この時期にサッカーがあることを鮮明に覚えているんです。

異動を伝えられたその日の午前中は、何も手につかず、人として機能していなかったのを覚えています。

その夜には、10人ぐらいの同期が集まってくれたので、焼肉屋で飲みました。

優しい仲間達です。

次の日の9:00には、人事異動を知らせる集会みたいなのがあって、100人ぐらいの前で挨拶をしました。

何を言おうかな~と考えていましたが、季節ネタを使ったので、この内容はまだ覚えてます。

============================
えー、第二開発室のもっちーです。

暗い雰囲気なので、少々明るめに・・・。

会社って怖いところですね。(つかみで、みんなの笑いをとれましたが、事業部長の顔はひきつっていました。(苦笑))

先週の金曜日に何も聞かされなかったから、人事異動なんて、自分は対象外だと思ってましたよ~。

そしたら、昨日、いきなり関西へ内示でしたよ。いやー、参っちゃいました。

でも、今日が4月1日で良かったと思いますね~。

いやいや、エイプリルフールだからじゃないですよ。

入社式なんだと思います。

地下鉄のホームで、スーツを着ていて、友達同士でネクタイを締め合っている新入社員の団体がいたんです。

まあ社会人として重要なのは、身なりばかりではないとは思いますが・・・。

で、入社式に臨んだ自分の二年前もあんなだったんだな~と思いました。

そして、やる気に満ち溢れていたんだと思います。

でも最近、その「やってやる」根性があった事を忘れていたみたいです。

大阪へ行ったら、入社当時のキモチに戻って、やってやろうかと思います。

皆さん、短い間でしたが、本当にありがとうございました。

しゃべる直前に考えたのですが、あのなんとも言えない状況で、今でも、よくこんな話をできたもんだと思っています。

知り合いの方を見ると泣いてしまいそうになったので、なるべく上の方を向いて話をしたのを覚えています。

突然の転勤で、東京から大阪へ飛ばされることになったワタクシめ。

いつでも会えると、友人関係をおろそかにしていることに気付きました。

もっと友達との時間を過ごせば良かったと思い、とても凹んだのを覚えています。

そんなこともあり、引越しまでの2週間、飲みの誘いが毎晩あったので、毎晩飲みに行きました。

・会社同期と2回
・会社の所属していた開発室の同僚と
・事業部長と室長と自分と三人で
・世話になっていた会社上司と
・大学の研究室同期と
・大学サークル関係者と
・その他あと3回

ホント、よく飲みました。(苦笑)

東京勤務の最終日、会社同期との飲み会が終了し、夜、センチな感じで(←死語?)、ほろ酔い気分で当時の会社の寮に戻ってきました。

さあ、明日は引越しなんだよな~・・・。

この社員寮の近くの景色も見納めだな~・・・。

そんな事を思っていたのを覚えてます。

ふと見ると、寮の自分のポストに、一通の手紙が届いていました。

封筒を見ると、「HONDA」の文字が・・・。

「うっっ。まさかね・・・。このタイミングで知らせが着くのは面白すぎる・・・。」

そのまさかでした。

3月の中旬あたりに、ネットで本田技研(本体の開発技術職)の中途採用情報が流れていたんです。

当時(今もですが)、HONDAは過去最高益、人型ロボットの「ASIMO」の開発、航空事業への進出を決めていて、当然大日本印刷社よりも給与も待遇も良く、そりゃーもう、入れるものなら入ってみたい企業だった訳です。

シャレ半分で、「入社したらどんな事をしたいか」を、チョコチョコっと書いてエントリーをしてみました。

そんなに簡単には行かねーわなと思ったり、異動騒ぎの事で、正直な所、エントリーしたのなんて、すっかり忘れていました。

で、中を見ると・・・。

「試験と面接を行うので連絡をください。」という知らせでした。

つくづく、いろんな事って重なるな~、振り回される面白い人生だな~と感心しました。

結局、その次の日は土曜日だったので、月曜日に連絡をしようと思いました。

で、次の日。

当時、会社では、東京→関西への出張は、自費でキップを買うのではなく、会社の事務のお姉さんから「キップ2枚(往復)」を渡されます。

でも今回会社から渡されたのは「キップ1枚」なんです。

その「1枚」しか渡されなかった時、「そうなんだよね・・・。片道だけでいいんだもんね・・・。」って、やるせない思いで受け取ったのを覚えています。

こんな感じで受け取ったキップを握り締め、いろんな想いを抱えながら、2年間お世話になった寮長に挨拶をすませ、当時兄が居た、京都へ向かいました。

東京→京都なので、当然静岡県を通る訳です。

私が今住んでいる実家は由比町なのですが、由比町は新幹線の通り道でもあります。

東京駅から新幹線に乗ってから、三島あたりまで寝ていましが、目がさめたので、せっかくなので由比町を通り過ぎるまで外を観ていました。

通った中学が見えました。

「こんな感じになって、新幹線から中学を見ることになるなんて、一ヶ月前は思いもしなかったな・・・。」

なんとも言えない気持ちになったのを覚えています。

京都に着きました。

いつも普通にホームに降りるんですが、やっぱ感じ方が違う訳なんです。

「着いちゃったよ・・・。」

「来ちゃったな・・・。」

関西の方(JR西日本)では、山口百恵の「いい日旅立ち」の着メロみたいなのが流れてきて、そんな感情をそそるんです・・・。

京都には兄が出迎えてくれました。

兄のアパートは京都駅近くでした。

夜は、せっかくだからと一緒に出掛けて夕飯を食べに行きました。

会社から引越し身支度代10万をもらっていましたが、自分の場合は全然使わなかったので、自分のおごりで豪勢にすき焼きを食べました。

肉、肉、次も肉。

そんな感じでした。(苦笑)

その後、京の夜の町を歩きました。

近かったので、祇園と呼ばれる所を歩きました。

ちょうど桜が散るころの夜桜。

めちゃめちゃキレイでした。

その頃、森山直太郎の「さくら」がヒットしていたんです。

「さらば 友よ 旅立ちの刻・・・」

自分の凹んだ感情に追い討ちをかけるように曲が重なって、とっても印象深い桜になりました。

今思い出しても泣いちゃいそうです・・・。

京都に向かった次の日、兄のアパートを出て高槻市に向かいました。

会社の寮が高槻にあるからです。

高槻寮に着いて、寮長さんに会いました。

寮長「荷物が届いてはいますが・・・」

気まずそうな寮長さん。

寮長「荷物で部屋がいっぱいに・・・。」

東京の中村橋の寮は広い方だったのですが、この高槻寮は少々狭かったんです。

扉をあけたら・・・。

ダンボールがいっぱい。

足の踏み場もないとはこういうこと。(汗)

とりあえず、空き部屋に一時避難させました。

数日間は荷物を広げずに、ダンボールとともに暮らしました。

さて、次の日、月曜日。

大阪の北新地にある関西の拠点に出社しました。

出迎えてくれたのは、N本部長でした。

N本部長こそ、今回の関西への異動騒動(?)のきっかけの張本人。(だと思う)

実は私が異動する一年前に、関西に異動していました。

この方は私が入社して一年間、配属された部署があるビルのトップの人でした。

東京にいる時(入社一年目)「~で飲んでるから、とりあえず来い。」と電話が掛かってくると、私はダッシュで会社から飲み会会場まで走る・・・などという、そのビルの自分の同期の中では、私が一番仲良くさせて頂いていたのですが・・・。

この方が、私を関西へ呼び寄せたです。(多分)

だって、それ以外、関西商印事業部なんて、繋がりもなかったんだもん。

私の人生設計なんてお構いなしに・・・。(苦笑)

本部長「ご苦労さん。良く来たな。」

私の心の中「本当にご苦労ですよ・・・。」

↑こんなこと言えるはずもなく。(苦笑)

でも、まあ、やはり、光栄なことだったと思います。

いくら上の人の希望とはいえ、入社3年目の若造を、簡単に異動させたりはないでしょう。

というか、自分の楽しみのためだけに、私を連れてきたとは思いたくなかったです。

コイツなら、なにか面白い仕事をして、部署を活性化してくれると見込んでの事だったのでしょう。

真相はわかりませんが・・・。

そう信じたい・・・。(苦笑)

関西に出社したのは良いものの、やはり、転職面接の知らせがきた本田技研の事が頭から離れません。

昼休みに電話を掛けました。

自分:「私、関西に転勤になっちゃったんですが・・・。」

先方:「前日の宿泊費等も出ますので、興味がわいているのならば、来てみてください。」

さすがはHONDA。ふとっぱらだと思いました。

試験や面接の日は2週間後でした。

で、関西への異動の2週間は、N本部長命令で、その事業部の新入社員の子達と、新人研修を受けました。

その子達は、やる気満々な訳です。

私は、2週間後のことばかり考え、複雑な思いを抱えながら、工場見学やら、いろんな子会社などを回る、2週間の研修を受けました。

2週間後。

金曜の夜、東京に向かいました。

その時初めて知りました。

10分置きぐらいに新大阪駅を出発する東京行きの新幹線「のぞみ」。

これ、金曜の夜は、ほとんど満席になってしまうんです。

こんなにも、東京に向かう(帰る?)ビジネスマン達がいるんだね・・・。

大変な思いをしながら、こういう人達が日本や関西を動かしているんだね・・・。

自分は自分の人生に振り回されて、東京に行くんだ・・・。何やってるんだろ・・・。(苦笑)

そんな事を考えたのを覚えています。

途中、当然、静岡を「通り過ぎ」ます。

由比町を通り・・・。

通った由比中学の体育館の明かりが見えました。

その時、私の「何やってるんだろ」感は、最高潮に達しました。(苦笑)

東京に着きました。

2週間前に「出発」した場所。

いつもとは違う場所に見えました。

普通だったら・・・。

「ちょっと東京戻ってきたから、飲もうよ~。」

なんて電話をかけるのですが・・・。

盛大に送り出してくれた、会社の同期、大学の友人にそんな事も言う訳にも行かず・・・。(汗)

ひっそり一人で新宿のビジネスホテルに泊まりました。

外に遊びに行く気にもなれず・・・。

この感覚はなんとも言い難く、寂しかったですね・・・。

土曜の朝。

前日に、関西から東京に来て、新宿のビジネスホテルに泊まった私。

ビビって夜も遊ばず、酒も飲まずにいたら、目が早く覚めてしまいました。

池袋から東武線に乗って和光市へ。

早めに着いてしまった私は、HONDA社の周辺を歩きました。

広い敷地でした。

時間をつぶしてから試験会場へ。

50人ぐらいが集まってました。

「そうだよね・・・。みんな入りたいんだね・・・。試験だって、この日だけじゃないだろうし・・・。競争率、高いな~。」

と、少々あきらめムード。

午前中に、クレペリン検査(就職試験で良くある、延々と単純足し算をやって疲れるヤツ)、数学、英語、社会、化学などのテストをやりました。

クレペリン検査は、やっぱり疲れました。

数学、社会は高校時代の記憶をたどって・・・。

化学はとりあえず、化学専攻だったということで・・・。

英語は、その3月まで、会社主催の英語研修を週一回受けていたので、なんとか・・・。

で、午後に面接。

やる気と空自信を面接官に見せておいて、あとは「この2週間前に突然大阪に転勤になってしまいましてね~。」と、その場の笑いをとっておきました。

帰り。

領収書を渡したら、東京⇔大阪の往復の新幹線代、電車賃、ホテル代をくれました。

さすが儲かっている会社は違う。

試験結果は後日郵送との事。

日曜に予定があったので、そのまま関西へとんぼ返り。

またもや新幹線から由比町を見ながら、「何やってるんだろな~。」

転職面接を受け終わって、関西での業務が本格的にスタートしました。

当然、結果が気になって、仕事に本腰がはいりません。(汗)

2週間後ぐらいに実家にHONDA社書類が郵送されたことを電話で聞きました。

なぜに実家かと言いますと・・・。

会社の寮だと、多くの人の目についてしまうからです。

中を見てもらったら・・・。

「健康診断と面接をするので、また来てください」

との感じのことが書いてありました。

さらに、業務に本腰がはいらなくなってしまいました。(汗)

そのまた2週間後。

金曜の夜、新大阪からのぞみに乗って、東京に向かう自分がいる訳です。

一ヶ月前と同じように・・・。

当然、盛大に送り出してくれた、東京のみんなには誰にも言えない・・・。

また、一ヶ月前と同じビジネスホテルに泊まりました。

翌日。

一ヶ月前と同じ会場に向かいました。

今回は、私と同じように試験に来ている人が2人でした。

まずは、その人達と一緒に健康診断を受けました。

血もとられました。(痛)

その後、一人一人面接を受けました。

「年収は~ぐらい欲しい。自分にはそのぐらいの利益を出す自信があります。」

なんて、まったくの口先だけの空自信の話もありました。

終わってまた関西にトンボ帰り。

関西では、仕事に本腰が入らない日々が続きます。

この面接結果が出るのは2週間後のはずでした。

しかし2週間後・・・。

「もう少々時間をください」との連絡がありました。

そんなこと言われれば、さら、仕事に本腰が入らない日々が続きます。

その後また2週間、計1ヶ月ぐらい掛かりました。

で、結果は・・・。

「見送らせてください。」

落ちる予感はしてました。

2度目の面接の時には、関西での「新しい生活」も面白いな~と感じていて、それが面接に出たのがわかったからです。

このHONDA騒動が終わったのが、3年前の6月頭ぐらい。

関西に渡ってからの、4~6月頭の2ヶ月間も、いろんな事に振り回される、精神的にきつい日々でした。

でも、いい思い出、いい経験となりました。

その後の半年後、会社を辞めるまでも、なかなかの経験ではありましたが・・・。(終)

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2000年1月フジテレビの就職試験

私はフジテレビの入社試験(技術系)を記念受験したことがあります。

確か2000年の1月。

その頃は・・・、父親が亡くなった直後でした。

就職なんて、どっかに決まればいいやぐらいで考えていた頃でした。

最初はウェブでエントリーでした。

履歴書文以外に、確か、「デジタルとアナログを小学生にわかるような説明をしてください」という質問が1問だけありました。

で、「お金を渡す時、デジタルは100円がそのまま100円で受け取れて、アナログは30円とか50円になってしまうもの」という、とんでもなく投げやりな解答を書いて、エントリーしました。

その後、面接、試験を行うので、フジテレビ本社に集まってくださいというメールがきました。

おおっ、よくエントリーできたな。100円だったのが良かったのかな?と不思議に思いつつ、試験に向かいました。

初めてフジテレビの正面玄関から入りました。(当然か)

エレベーターで屋上近くのホールに向かいました。

このホール見覚えあると思ったら、「踊る大捜査線」で使っていたところだと思い、少々感動。

ホールにはたくさんの人が集まっていました。

300人ぐらいかな。

そりゃ、フジテレビですもんね。大人気。

その日は、一般的な英語、数学のテストを受けたのちに、その場でエントリーシートを書き込み、その後面接に臨みました。

面接官は、多分、テレビの技術系の仕事をしているであろう二人でした。

なぜそう思ったかというと、服装もあんまりきれいでなかったので、仕事を抜け出してきたんだろうなと想像できたからです。

「確かに情報系の出身ではないけど、出来る自信があります。音声系の仕事がしたいです。情報系以外の人間を採るのであれば、私にチャンスをください。」

と、自慢の空自信で、理想論を熱く語りました。

落ちたかな~と思いましたが、連絡があって、また試験に来て欲しいとのこと。

2回目は60人ぐらいしかいませんでした。

この時は試験が、情報系の難しいテストがありました。

当然、全然わからず、適当に答えを書きました。

面接は多分、上部の方々でした。

なぜそう思ったかというと、スーツを着ていて、なんとなくの余裕が感じられたからです。

この時は、自分が属していたテニスサークルでの武勇伝(法は犯してはいません(笑))を聞きたがっていたので、その話をしました。

結局、この段階で落ちたのですが、1/60まで行けたし、「踊る大捜査線」のホールも見れたし、いい思い出となりました。

記念受験だ、と肩に力が入っていなかったのが良かったんだと思います。

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弊社の心強い味方

困った時はすぐ相談。
弊社の強い味方「西野総合会計」
所長 西野雄介様(税理士・中小企業診断士)
副所長 西野彰様(公認会計士・税理士・行政書士)

弊社は小規模ですが、財務を
中小企業診断士・公認会計士の西野雄介様、彰様にお任せしております。
会社規模から言うと、「公認会計士」の先生が財務を担当することは、
普通はありえないのですが、
ご好意により、お世話になっております。
(財務委託、会社設立等をお考えの方がおりましたら、
西野さんに一度ご相談することをお薦めします。)

また、私にわからない問題、
私の判断がつき難い決断、
例えば、弊社との新規取引、新規宣伝広告などは
まず、この方々に相談する形をとっております。

ですので、新規取引の決定などは
多少時間が掛かることがございますが
信頼できる取引ができると思いますので
ご安心してください。

また、菓子を買って頂けるお客様にとっても
インターネットという顔の見えない世界の中で、
信用できる店だということがわかって頂けると思います。
安心して、ご注文下さればと思います。

追伸:
公認会計士である、西野彰さんは
年齢が2つ上で近いということもあり、
よく二人で居酒屋にお酒を飲みに行っています。
お酒の席でも良きパートナーでいさせて頂いております。(^^;)